JR福知山線脱線事故と歴代社長に対する裁判の意味を考える
こんばんわ!ちょらぶろぐのヒデチョラです!(@hidechora)
一昨日は兵庫県、昨日は東京に出張に行ってきました。
めっちゃ疲れましたが、兵庫県に行くのは初めてだったので楽しみでしたね!
仕事のことはあんまり考えず、おみやげは何を買おう、夜ご飯は何を食べよう?という頭しかありませんでした(笑)
私の頭の中もうたこ焼きでいっぱい。
そんなことを考えながら新大阪から福知山行きの列車に乗ったときに、なんか変な感覚に襲われました。
言葉で伝えるのは難しいのですが、忘れたことを思い出せない感覚ですかね。何かを忘れているということはわかっているんですけど。
仕事のことでなんか忘れてるかな?とか心配になったのですが、特に何も思いつかないので、胸のモヤモヤを抱えたまましばらく列車に揺られていました。
そして尼崎に着いたときに頭の中にズバーーーンとあるワードが浮かんできました。
「脱線事故」
2005年に起こった史上最悪の列車事故ですね。
事故当初はもちろんニュースにくぎ付けになっていましたが、月日が流れこの事故のことはすっかり頭から抜け落ちていました。
10数年もの間、頭になかった出来事をいきなり思い出したのです。
そこからは行きも帰りも何かに囚われたかのように、福知山線脱線事故の事をネットで調べていました。
今日はそのことを書かずにはいられなかったので、記憶のあるうちに書き残したいと思います。
福知山線脱線事故を忘れてはいけない。私たちが出来ることは何か
福知山線脱線事故とは
これについてはこのブログで記述する必要はないですね。下記を参照ください。
私はこの事故の詳細を話したいわけではなく、この事故が起こった後の十数年間の話がしたいと思っているためです。
2017年6月まで裁判が行われていた
私は恥ずかしながら、つい最近までこの事故の責任を問う歴代社長への裁判が行われていたことを知りませんでした。
いえ、裁判が行われていたことを話したいわけではなく、この事故に対する興味がなくなっていたことを話したいのです。
どんなに凶悪な事件でも、どんなに凄惨な事故が起きても、月日がたてば人間の記憶からは抜けるか薄れていくものです。
でもそれってすごく悔しいことだなって実感しました。
私なんてただの弱小ブロガーですが、こうしてネット社会になったことで、簡単に誰でも記録、記憶を残し発信できる時代になっています。
だから私もそうしたいと思ったし、この記事は誰かに「お願いだから書いてほしい」と言われたような気がしたので書きました(何を言っているんだと思われるかもしれませんが)
結果的にこの社長に対する責任は認められず、最高裁で無罪確定となったようです。
裁判の焦点は?
この裁判の焦点は、歴代3社長が現場のカーブで脱線事故の危険を予見し、自動列車停止装置(ATS)の設置義務を指示する義務を負っていたかどうかでした。
結論としては、歴代3社長がそのカーブで自己を予見できた可能性はないとして、ATS設置指示の義務はなかったとし、無罪確定となりました。
※ATS設置義務は法律でも定められていなかった
この無罪判決については、私はその通りだと思います。社長個人に対する刑事罰を認めるのは難しいと思います。
ただし、遺族が悔やむ気持ちもものすごいわかります。(はっきり言って私なんかが気持ちがわかると軽々しく言えるレベルの悔やしさではないのでしょうが)
ネット上の反応は?
もちろん無罪に対する怒りの声は多数見られました。
事故を起こしても責任を取らないトップ、そもそも日勤教育が原因、詰込みダイヤが問題などなど。
それに対して、民事で責任を取っている、日勤教育をすると脱線事故が起こるという予見ができるのか?等の意見がぶつかっていました。
正直どちらの言い分も正しいんですよね。法律的に言うと無罪派の意見が正しいのだろうけど、人間としては有罪派の意見が正しくなり、裁判は法律を元に判断するというだけの話なんだと思います。
法人組織に対する刑事罰
私は法律の専門家でも何でもないが、業務上過失致死罪で法人に刑事責任を請求できる法律が整っていれば、JR西日本は有罪になっていたんじゃないかと思います。
今の日本にはその法整備が出来ていないようです。
私たちができること
私は、このような事故が起こって、このような長い裁判を終えて、「無罪」という結果だけが残って終わるような気がしてならないのです。
大多数の人が事故の当事者ではないので、時間がたつにつれて興味がなくなってしまうのではないでしょうか?
私は、法人組織に刑事責任を請求できるように法整備をすることで、ようやくこの事故、この裁判に意味が生まれるのではと思っています。
罪に問われていた歴代3社長には積極的に取り組んでいってほしいと思っている。
そしていち弱小ブロガーの私ですが、こんな記事がネット上で残り続けることで、たまに人の目に触れ、議論の火種が消えないための一助になればと思っています。